クロアチア人が、七世紀に現在の土地に定着し建国しまた。
トルピミル候,ブラニミル候、トミスラフ候、ペタル王、クレシミル四世らの治世が続いた後、1102年にハンガリー王国との間で婚姻関係が結ばれ、独立を失います。1527年、クロアチアの封建諸侯は、ハプスブルク家の統治を認めました。それ以来、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊する1918年までウイーンとペストの支配に対する戦いが続いたのです。
例えば、17世紀ノフランコパン=ズリンスキの謀反、1871年のラコビイッの乱、今世紀初頭の青年革命運動などです。
抑圧された農民大衆は、封建支配に対する長い血みどろの戦いを繰り広げました。この地方で最大の農民一揆は、1573年の奴隷マテイア・グベッの指導によるもので、蜂起の波はクロアチア全土に広がり,更にスロベニアの一部へも波及しまた。
生まれて間もない市民階級は19世紀前半、イリリア運動の名で知られる民族再生の運動を起こし、他の南スラブ庶民族との共同体を理念としてかかげ、そこに戦いの広い支持を求めました。
当時の中心的運動理念はアンチ・スタルチビッツチのクロアチア国家独立構想とヨシプ・ユライ・シュトロスマイエルのユーゴスラビア主義でした。
1918年にセルビア人、クロアチア人、トスロベニア人の王国が成立してからは、一人共産党だけが大セルビア主義と覇権主義を中央集権的支配とに対し、きわめて困難な政情のもとで闘争を行いました。
両大戦間の時期における最大の政党であったクロアチア農民党は、その創立者ステパン・ラビッチが死ぬと、方針を転換してセルビア・ブルジュアジーと手を打ち、クロアチア農民の利益を守り戦うと称しながら、実はその利益を裏切ったのです。
労働運動は北部に比較的強い階級基盤をもっていましたが、1895年の社会民主党の創立を機に力を増し始めます。
共産党は、1920年の地方選挙においてザグレブ市議会の過半数を占めました。ヨシプ・ブロズ=チトーが革命活動を始めたのもザグレブでした。
チトーはまた、1928年、第8回ザグレブ市党協議会で反分派を行っていました。
1940年、党の再建に成功したユーゴスラビア共産党は、第五回全国協議会をザグレブで開き、ファシストによる戦略があれば、即時歴史的任務を果たす用意があることを確認しまた。
ユーゴスラビア国が崩壊し、国産ファシスト・ウスタシャによる血の傀儡政権がつくられると、クロアチア民族は共産党の指導のもとに、ユーゴスラビアの他諸民族と肩を並べて人民解放戦争を開始しまた。
1941年末までに約7000人の戦士を擁する20余のパルチザン部隊が結成されました。
同年秋にはクロアチア総司令部と最初の人民解放委員会が作られ、更に1942年第1回のユーゴスラビア人民解放反ファシズム会議の後、クロアチア人民解放反ファシズム全国会議が解放運動と革命の最高政治機関として設立されました。
クロアチア民族は、人民解放戦争と社会主義革命を通じて社会的、民族的解放を勝ち取り、国家を再興し、かつてイタリアに奪われていた領土を回復し(イストリア半島、リエカ、ザダル、一部島)、ユーゴスラビアの他の諸民族と共に新しい社会主義ユーゴスラビアが生み出されたのです。
1945年から1990年まではユーゴスラビア国家共同体と経て1991年に独立し、民主主義国家となりました。
クロアチアは国際連合、OESSの一員であり、NATO、そしてCEFTAと平和協調をし、ユーロアトランテイツク地域(EU)に加入すべく準備を整えています。
|