NPO法人 日本クロアチア文化交流協会
Japan Croatia Cultural Exchange Association


豊かな大自然と世界に誇る遺産の数々…
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クロアチアって?
 



国土
 
クロアチア共和国は、国土面積5万6538平方キロの面積をもち、地勢や気候風土条件から見て、地中海地方、山岳地方、パンノニア地方に三分されます。地中海地方の特徴は、世界でもまれなほど屈曲に富んだ海岸線です。全長1778キロですが、海岸線に沿って1185の大小の島や岩礁があり、その海岸線を加えると5,780キロにも及びます。そのため、クロアチアは「千島の国」と呼ばれてきました。
 

略史
 
クロアチア人が、七世紀に現在の土地に定着し建国しまた。

トルピミル候,ブラニミル候、トミスラフ候、ペタル王、クレシミル四世らの治世が続いた後、1102年にハンガリー王国との間で婚姻関係が結ばれ、独立を失います。
1527年、クロアチアの封建諸侯は、ハプスブルク家の統治を認めました。それ以来、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊する1918年までウイーンとペストの支配に対する戦いが続いたのです。
例えば、17世紀ノフランコパン=ズリンスキの謀反、1871年のラコビイッの乱、今世紀初頭の青年革命運動などです。

抑圧された農民大衆は、封建支配に対する長い血みどろの戦いを繰り広げました。この地方で最大の農民一揆は、1573年の奴隷マテイア・グベッの指導によるもので、蜂起の波はクロアチア全土に広がり,更にスロベニアの一部へも波及しまた。

生まれて間もない市民階級は19世紀前半、イリリア運動の名で知られる民族再生の運動を起こし、他の南スラブ庶民族との共同体を理念としてかかげ、そこに戦いの広い支持を求めました。
当時の中心的運動理念はアンチ・スタルチビッツチのクロアチア国家独立構想とヨシプ・ユライ・シュトロスマイエルのユーゴスラビア主義でした。

1918年にセルビア人、クロアチア人、トスロベニア人の王国が成立してからは、一人共産党だけが大セルビア主義と覇権主義を中央集権的支配とに対し、きわめて困難な政情のもとで闘争を行いました。
両大戦間の時期における最大の政党であったクロアチア農民党は、その創立者ステパン・ラビッチが死ぬと、方針を転換してセルビア・ブルジュアジーと手を打ち、クロアチア農民の利益を守り戦うと称しながら、実はその利益を裏切ったのです。

労働運動は北部に比較的強い階級基盤をもっていましたが、1895年の社会民主党の創立を機に力を増し始めます。
共産党は、1920年の地方選挙においてザグレブ市議会の過半数を占めました。ヨシプ・ブロズ=チトーが革命活動を始めたのもザグレブでした。
チトーはまた、1928年、第8回ザグレブ市党協議会で反分派を行っていました。
1940年、党の再建に成功したユーゴスラビア共産党は、第五回全国協議会をザグレブで開き、ファシストによる戦略があれば、即時歴史的任務を果たす用意があることを確認しまた。

ユーゴスラビア国が崩壊し、国産ファシスト・ウスタシャによる血の傀儡政権がつくられるとクロアチア民族は共産党の指導のもとに、ユーゴスラビアの他諸民族と肩を並べて人民解放戦争を開始しまた。
1941年末までに約7000人の戦士を擁する20余のパルチザン部隊が結成されました。
同年秋にはクロアチア総司令部と最初の人民解放委員会が作られ、更に1942年第1回のユーゴスラビア人民解放反ファシズム会議の後、クロアチア人民解放反ファシズム全国会議が解放運動と革命の最高政治機関として設立されました。

クロアチア民族は、人民解放戦争と社会主義革命を通じて社会的、民族的解放を勝ち取り、国家を再興し、かつてイタリアに奪われていた領土を回復し(イストリア半島、リエカ、ザダル、一部島)、ユーゴスラビアの他の諸民族と共に新しい社会主義ユーゴスラビアが生み出されたのです。

1945年から1990年まではユーゴスラビア国家共同体と経て1991年に独立し、民主主義国家となりました。

クロアチアは国際連合、OESSの一員であり、NATO、そしてCEFTAと平和協調をしユーロアトランテイツク地域(EU)に加入すべく準備を整えています。
 

観光
 
青く澄んだ海から灰色のカルスト地帯、ザゴリエ地方のなだらかな丘陵、そして大河に縁取られた
パンノニア大平原にいたるまでクロアチアは素晴らし自然美に溢れています。しかしなんといっても魅力的なのは、アドリア海の美しさです。古くから保養地として知られているオパテイア、ドブロクニク、ファバルとならんで、ここ20年のあいだに新しい保養地としてポーレチ、ウマダ、ロビニ、プーラなどの町やクルク島、ラブ島そして、ザダル、シベニック、カシュテル、マカルスカなどの海岸が開発されました。一部はハワイ以上の施設と雰囲気です。

最近では、よく整備されたヌーデスト・ビーチがお目当てでアドリア海でバカンスを過ごす、ドイツ人、イギリス人、イタリア人、フランス人も年々増えているようです。ヌーデイスト・キャンプの数は10ケ所をこえますが、ブルサル近郊のコバエルサダ(イストリア半島)は世界最大級です。

クロアチアには国立公園が多く、なかでもプリトビッツ湖沼国立公園は最大規模で、最も貴重なものです。他にコルナート群島、リスニャク、パクレニッア、ムリエット島などの国立公園が知られています。

ゴルスキ・コタル地方は冬場の観光のメッカとして開発されつつあります。また、森や河川に富んだ共和国北部では、狩猟観光がさかんです。

多数の温泉地に療養施設が作られており、クラピンスケ、トプリツッ、ビラジデンスケ・トプリツッ、ストビチケ・トプリツッ、ダルバルスケ・トプリツッ、リピチケ、トプリツッ、イスタルスケ・トプリツッなどが保養地として有名です。
 

産業
 
工業全体としては、石油工業と造船業と化学工業が特に発達しています。
クロアチアの油田から年間300万トンの石油が産出さ、全国の需要の4分の一を満たしています。
最近ではアドリア海で天燃ガスも発見され、原油はリエカ、スイサク、ザグレブの精油所で精製・加工されています。
主たる造船所はリエカ、スプリット、プーラにおかれています。
工業製品ではザグレブのプリバ製薬、合成樹脂ではザグレブのオキ有機化学工業、スプリットのユーゴプラステイカ社トユーゴビニル社、化学肥料ではクテイナのイナ石油化学、染料、塗料ではザグレブのクロモス=カトラン=クトリリン化学コンビナート,洗剤と化粧品では、オスエクのサポニア社がトップ・メーカーです。

スイサクの製鉄所では、シームレス鋼管と溶接鋼管が生産されています。
アルミ工業の中心はシベニックのボリス・キドリッチ軽金属です。
スラボンスキ・ブロドのジューロ・ジャコビッチ社は原子力発電所設備やプラントを供給しています。
ザグレブのプルバマイスカ社は最大の工作機械メーカーです。発電機、電気機関車、エレクトロニクス、家庭電器などではザグレブのラーデ・コンチャル社、通信機器では、ザグレブのニコラ・テラス社があげられます。

繊維産業ではバラジデンのビュルテクス社、ドガ・レサの綿工業、ザグレブのカメンスコ社、ナプリエド社、ナダ・デミッチ社などがあります。食品工業ではコプリバニッのポドラバ食品工業が最大です。
 

文化
 
夏の観光シーズン中は、各地で演劇祭や音楽祭が行われますが、中でもドブロクニクのサマー・フェステイバルが有名です。

クロアチア美術の歴史は、中世初期にさかのぼることができますが、とくに ニン、プリコ、ストン、ザダル、クルク、ラブなどに残っている9世紀以後の教会建築が重要で、石彫りや金細工に優れたものが多く残されています。13世紀から15世紀にかけてのロマネスク時代の代表作には、アンドリア・バイナによるスプリットの大聖堂の扉、ラドバアンによるトロギールの大聖堂正面、ドブロクニクのフランシスコ派修道院があります。後期ゴジックではユライ・ダルマテイナツの名が知られる『シベニックの大聖堂』、『スプリットの彫像』があります。

ルネッサンスの時代になると、ドブログニクを初めとして数多くの美しい中世都市が完成し、画家のN・ボジダレビッチ、J・チェリノビッチ、A・メドウリッチ、J・クロビッチ、彫刻家のF・ブラニャニン〔ラウラナ〕らが活躍しました。

バロック時代の影響は、ザグレブ、ビラジデイン、ベレツ、レポグラバなど、クロアチア北部の諸都市にみられます。近代クロアチア美術を代表する名前としては、V.・カラス、J・ラチッチ、E・ビドビッチ、M・クラリエビッチ、V・ベッチ、O・ヘルマン、K・ヘゲドシッチ、I・メシュトロビッチ、A・アウグツテインチッチ、V・ラダウシュ、G・アントウナッ、I・ロジッア、K・アンゲリ=ラドバニ、E・ムルテイチ、M・スタンチッチ、D・ジャモニャらの画家や彫刻家、V・コバチッチ、D・イブレルなどの建築家があげられます。またイバン・ゲネラニッチ、はじまるフレビネのナイーブ派の画家たちは、広く世界に知られています。

民族語によるクロアチア文学は、中世以来、その伝統をつちかってきました。古くは、グラゴル文字で書かれた1100年前後のバシュカ石碑、1288年のビノドル法典などがあります。続いて人文主義的なルネッサンス文字とバロック文字の最盛期が訪れ、マルコ・マルリッチはクロアチア文学の父と呼ばれています。
フランシスコ・ザビエルがキリスト教伝道師として始めて日本に渡った際、彼の「聖職授任」一冊のみ携帯したエピソードがあります。(M・ドルジッチ、I・グンドウリッチその他}。その中心はドブロブニクでした。

宗教革命に対する反動の時代には、北部にM・A・レルコビッチ、T・ブレゾバチキといった文学者達が登場しています。
クロアチア民族再生の時代から文学はリュデビイト・ガイとイリリア派の人たちが推進した統一正字法に従って、シュト方言を用いて書かれるようになりました。

19世紀から今世紀にかけて、現代クロアチア文学は、優れた文学者を輩出しました。例えば、I・マジュラニッチ、A・シェノア、S・S・クラノチェビッチ、A・コバチッチ、A・G・マトシュ、V・ナゾル、A・ツエサレツ、T・ウイエビッチ、I・G・コバチッチ、D・ツエサリッチ、G・クルクレツ、D・タデイアヤノバチ、S・コラル、V・デスニツア、R・マリンコビッチ、V・カレブ、M・ボジッチ、M・モトコビッチ、S・ノバアックがあげられます。

また、ミロラスバ・クルレジャは詩人、小説家、戯曲家としては特筆に値する文学者であっただけではなく、多くの重要な文学誌を創刊しました。

作曲家としては、古くはI・ルカチッチ、I・M・ヤルノビッチ、L・ソルコチェビッチなど、近代にはV・リスインスキー、I・ザイツ、B・ベルサ、J・ドトバッア、などが傑出しています。

ザグレブはザグレブ・フィルハーモニー、ザグレブ放送交響楽団、ザグレブ合奏団、ザグレブ管弦四重奏団など、多くの著名な楽団の本拠地であり、国際現代音楽際ザグレブ・ビエンナアーレもここで催されます。
現代の作曲家には、A・ドブロニッチ、I・マテテイチ=ロニゴフ、F・ロトカ、K・オダク、K・バラノビッチ、J・スラビエンスキー、B・パパンドプロ、I・ブルカノビッチ、S・シェレク、M・ケレメン、I・マレツらがいます。


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